• 世界を記述し、より良い生活を考える05
  • 2023年10月31日

豊かな果樹地帯が続く、山梨県甲州市から

「お菓子がつなぐ、さまざまなあいだ」

  • 長田佳子(菓子研究家)

2021年春、菓子研究家の長田佳子さんは東京から山梨県甲州市に移住した。心持ちは、移住ではなく引っ越しくらいの感覚だったという長田さんが、この土地で少しずつ耕してきた、日常とお菓子を作るということ。

  • 写真:山本恭平
  • 編集・文:水島七恵

自分の内側の日常を大切に思う

周囲に山々が折り重なる甲府盆地。山梨県内でも指折りの果樹地帯が続くこの盆地の北東に位置する甲州市に、東京から家族と移り住んで3年目を迎えた長田佳子さん。活動拠点である自身のアトリエ『SALTandCAKE』を訪ねると、白く美しいアールを描いた漆喰のカウンターで長田さんがお菓子の材料を相手に手を動かしていた。

アトリエ『SALTandCAKE』のオープンキッチン。

かつてワイン貯蔵庫だった倉庫を大工さんの力を借りながら3ヶ月かけてDIY改装した『SALTandCAKE』は、地元の果樹農家の果実を用いたお菓子作りの試作・提供の場であり、ここで育てたハーブのお茶の提供を行う場であり、様々なものづくりに携わる人たちの作品展や企画展を行う場でもある。現在不定期で行っているオープンデイには県外からも多くの人が訪れ、お菓子から広がるこの土地の空気や匂いを味わっている。

『SALTandCAKE』の最新情報はinstagramで確認を。
https://www.instagram.com/inhere_fg/

移住して最初の1年は借りた畑の手入れと『SALTandCAKE』でのDIY作業で身体を酷使。自然の力に振り回されながら、作業が思うようにいかず落ち込むこともあったと言う長田さんだが、2年を過ぎた頃から自分なりの歩幅で落ち着いて暮らせるようになった。

訪れたこの日、『SALTandCAKE』ではアートブックと明かりをテーマにしたポップアップの準備中だった。テーブルの上の照明は北欧家具や雑貨を扱うTRAMのもの。アートブックはユトレヒト(書店)、telescope@art(古書店)、torch press(出版社)が参加した。

「だんだんと自然を軸にした時間の使い方に身体が慣れてきたんです。あとは、自分自身と向き合う時間が増えたことで、本当に自分に必要だと思えることに気づいたことが大きいと思います。いろんな情報が行き交う東京で暮らしていたときは、あれもこれも知らなきゃ、行かなきゃと、忙しなく過ごしていて、スケジュールをたくさん詰めてはいつも何か急いでいたように思います。でも今は自分の内側の日常を大切に思うようになりました。そうやって自分が少しずつ変化していくと、お菓子を作るという行為も自分らしくとか、仕事だからという延長上にある行為ではなく、シンプルに日常の余白のなかでお菓子が作れたらいい。そう思うようになっていったんです」

お菓子教室のほかに、英国メディカルハーバリストの石丸沙織さんとハーブ教室を行なっている長田さん。『SALTandCAKE』裏の花壇は、その教室の生徒さんと植えたハーブがすくすくと育っている。

日常の余白。それはお菓子を作るに至るまでの時間をどう過ごすか。自分がいかに穏やかに健やかに日常を過ごせているか。それが結果として作るお菓子に影響すると気づくことにあった。
「食事もきちんと味わって丁寧に食べる。眠るにもただ時間を気にして眠るのではなく、なるべくクールダウンしてから布団に入って、質のいい睡眠を取るようにする。とか、本当にささやかな積み重ねで自分の心身が変わっていくのを感じています。そうしていくなかでお菓子作りそのものへの姿勢も変わっていきました。例えばテーマに合わせてお菓子を作る場合、以前なら自分に何ができるかな?と足りない部分を勉強して、たくさん試作をして、色々と準備に時間をかけてきました。でも今はいろんな種類をたくさん作って試作を重ねていくよりも、一つの味をぎゅっととびきりおいしくしようとか、農家さんからいただいたばかりの食材で何が作れるかな?とか、今ある状況でいかにベストを尽くせるか。そういう考えに変わっていき、どこか肩の力が抜けたような、等身大の日常のなかにお菓子作りがあるような、そんな実感があります」

花壇にはラベンダー(写真)のほかに、レモングラス、ゼラニウム、ローズマリー、レモンバーム、マリーゴールド、タイム、ボリジ、ステビアなど10種類以上のハーブが。家庭でも作りやすいハーブを選んでいる。

自分が消えていくことを理想として

食材を育む風土や生産者に寄り添いながら、身体にできるだけ負担のない素材を選び、心身の癒しにつながるお菓子作りを。長田さんのお菓子の真ん中にある想いは、そのまま自身の活動名義である「foodremedies(フードレメディ)」につながっている。レメディは「癒し」や「治療する」という意味を持ち、フードは「風土」でもある。

想いの原点は10年以上の修行時代に遡る。当時、砂糖や小麦の摂りすぎで身体を壊してしまった長田さんは、お菓子作りを辞めようかと思うまでに追い詰められていたと言う。そんな長田さんを支えたのが、当時並行してアシスタントを務めていた植物療法に基づいた、ハーブの専門家であるハーバリストの先生の言葉。「砂糖を断つのではなく、何かほかのことでバランスを取るといい」。それをきっかけに自らのお菓子作りも変化していく。

「お腹すいていませんか?」お昼時に伺った取材班を気遣う長田さんは、蜂蜜、チーズ、シナモンを素材としたハニースパイスのピザを振舞ってくれた。

「砂糖の量を減らして、身体にできるだけ負担が少なく、食べて癒すことができるお菓子を作りたい」。以来、長田さんはハーブやスパイスを使うことで甘みのバランスを取るようになり、砂糖も、精製度の低いきび砂糖や甜菜糖を使うように。「ハーバリストの先生のおかげでハーブの香りの作用に巡り合って、それらをお菓子に融合させたら自分の目指すお菓子が作れるかもしれない。そう思ったら、お菓子を作ることが本当の意味で楽しくなっていきました」

キッチンにはお菓子作りに使われるたくさんのスパイスが並ぶ。
近所の有機農家さんが育てたビーツと桃に加えて、クリームチーズとオリーブオイルを入れたシンプルなスムージーは、花壇で育てたフェンネルを添えて。

「それでも課題はありますし、試行錯誤は続きます」と言う長田さんにとって、変わらないお菓子の魅力とは?そう尋ねると「残らないところです」と、即答だった。
「食べてしまったら残らないところが最高にいいことだなあと思うんです。あと、お菓子作りは自我が出にくいところも好きです。料理は作りながら足し算や引き算で変化を楽しめると思うのですが、お菓子はそうはいきません。基本に忠実。秤を使ってある程度厳密に量らないと、固まらなかったり、膨らまなかったりしてしまう。その制約のなかでどう作っていくか。そうやってできあがるお菓子が、私にはとてもあっているのだと思います」

スムージーと合わせて取材班に振舞ってくれたベルギー発祥のお菓子スペキュロス(右)は、きび砂糖に黒糖を加えることで独特のコクが生まれる、スパイスの風味が豊かなビスケット。アルザスの郷土菓子ベラベッカ(左)は、ドライいちじくを贅沢に包み、甘味を出している。
スペキュロスは木型を使うのが本場の作り方。長田さんは木工作家の友人umanohanamukeが制作した木型を使っている。「好きな絵柄があしらわれたクッキーは、より一層、愛着が増します」

お菓子は作っても残らず、自我が出にくいからこそ好きで作り続けられるという長田さんの考えは、少し意外な、だけど長田さんの人となりの芯を突いている。

「もともと残るものを作るのがすごく苦手なんです。だからお菓子のようになくなるものにほっとするんですが、なくなるといえば、私はいつもどこかで自分を探さないで欲しいという気持ちがあって、消えていることが理想だとも思っている節があるんです(笑)。例えばお菓子教室をしていると、どうしても私の発言や動きに注目がいきますよね。でも今、私が言ったことを間に受けないでくださいね、といつも思っています。この瞬間は一期一会で、でもこれがすべてではないから」

探さないでほしい。それを「まるで幽霊のよう」だと長田さんは笑いながら話すが、長田さんにとってお菓子作りは食材を作る生産者がいてはじめて成り立つ行為であり、食べる人がいる。そのあいだでこそ自分が存在できるから、「これは自分が作ったお菓子ではないような気持ちがあります」という謙虚な想いがいつも真ん中にある。そしてその実直な眼差しが幽霊という言葉に置き換えられたのだと、そのとき感じた。

お菓子を作り続けるその理由

「ちょっとお連れしたい場所があります」。そう話す長田さんに連れられて歩いていくと、鼻筋のスッと通った2頭の馬の姿が見えてきた。

2頭の馬は北海道で生まれたことから、アイヌ語でウタリ(同胞)とイレンカ(理想・希望)とご夫妻は名付けた。

長田さんの日常の余白には、近所で暮らす建築家の坂根ご夫婦との時間がある。かねてより馬とともに生活をしたいという夢を持っていたご夫婦は、北海道の牧場にいた馬、ウタリとイレンカを家族の一員として迎え入れ、それまで住んでいた神奈川県鎌倉市から山梨へ。ウタリとイレンカのほかに猫4匹、犬1匹、鶏2羽の動物たちと暮らすご夫婦との時間が、長田さんの日々の大切な句読点になっていた。

ウタリとイレンカが穏やかに過ごせるようにとご夫妻が整えた敷地には、野生のハーブが育っている。

「ご夫婦のもとには、乗馬クラブの会員の方とか、馬仲間がたくさん集まるんですが、馬と触れ合うためのおやつはできるだけ安全なものだといいなということで、作ってもらえないですか?とお声がけいただいたんです。なので最近は馬と人間が一緒に食べられるおやつというテーマで、いろいろと試作をしたりしています」
オートミールとドライフルーツなど、ヴィーガン志向が高いという馬のおやつは、ウタリとイレンカをはじめ、さまざまな馬に試食をしてもらいながら研究中と言う。

「お菓子は作り手が立つのではなく、食べる人が立つものだと思っています。だからこそ私のレシピは正解ではなく、あくまでどうですか?と問いかけているようなところがあって、実際には食べる人の印象や感じた味わいが、そのお菓子を作っていくもの。自分ではなく、他者の気持ちや考えがお菓子そのものを表すからこそ、私は長くお菓子を作り続けられるのだと思います」
“自分が消えていることが理想”という長田さんの人となりに合い通じている、お菓子を作る理由。こうしてこれからも人と人、人と環境、人と生き物。あらゆる見えないあいだを長田さんのお菓子がつないでいくのだろう。

プロフィール

長田 佳子 OSADA Kako

菓子研究家

老舗フランス料理店のパティシエ、オーガニックレストランでの経験などを経て2015年に独立し、foodremediesの名義で活動をスタート。2021年春から山梨県甲州市に移住し、ワイン貯蔵庫だった倉庫を改装したアトリエ『SALTandCAKE』をオープン。近書に『別冊天然生活 はじめての、やさしいお菓子』(扶桑社ムック)がある。
https://foodremedies.jp

お菓子のレシピ

ビーツと桃のスムージー

材料

  • ビーツ
  • クリームチーズ
  • オリーブオイル
  • フレッシュフェンネル

作り方

  1. ビーツを190度のオーブンで1時間程度焼き、中まで火が通ったら、皮を剥いてミキサーにかけ冷ましておく。
  2. 桃の皮を剥き、種をとった果肉を1に加えピューレにしたら、クリームチーズも加えて滑らかになるまで混ぜる。
  3. オリーブオイルを加え、味を確認し、甘さが足りなかったらメープルシロップを加え、調整する。

ベラベッカ(写真左のお菓子)

材料

  • 薄力粉
  • きび砂糖
  • 天然酵母ドライイースト
  • 無塩バター
  • 赤ワイン
  • くるみ
  • ヘーゼルナッツ
  • カシューナッツ
  • いちじく
  • プルーン
  • レーズン
  • お好みのスパイス

作り方

  1. ナッツ類をローストし、ドライフルーツにワインをまぶしておく。
  2. ボウルに強力粉、きび砂糖、塩、水、ドライイースト、柔らかくしたバターを入れてひとまとまりになるまでよく捏ねる。
  3. 2を部屋のあたたかい場所において1時間程度、発酵させる。
  4. 生地がふっくらとし艶が出てきたら、再び捏ねて1とお好みのスパイスやハーブを加えて楕円形にしてオーブンシートを敷いた天板にのせ、30分休ませる。
  5. 160度にあたためたオーブンに入れ、40分を目安に焼く。
    ※数日置くと素材同士がしっとり馴染んでおいしくなります。